世田谷一家殺害事件⑤ 宮澤みきおさんのインターネットの師匠“長尾正”1
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- 7月20日
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長尾正
宮澤みきおさんにインターネットのやり方を教える。宮澤みきおさんと『インターネットでわかったこと・できたこと』(技術評論社)共著する。
1989年から電子メール始めた。パソコン通信のメールアドレス“people.or.jp”を使う。
1994年からインターネット始めた。
1995年にはニューヨークにある“digiweb”というレンタルサーバー会社に申し込んで独自ドメイン“nagao.com”で『touch japan』という名前の日本を紹介するホームページを始めた。神奈川県藤沢市にある『慶応大学の湘南キャンパス(SFC)』のサーバーのゲストブックを手本として、ゲストブックを作った。日本の選挙に関するページある。オランダページある。
この当時はレンタルサーバー会社は日本にもたくさんあったが、独自ドメインを提供する会社は一般的ではなかったし、価格も安くはなかった。現在は“GMOインターネット株式会社”が運営する『 お名前.com(ドットコム) 』が国内シェアトップのドメイン取得サービスで、ドメイン名のシステムの管理や運営を行う“ICANN(アイキャン)”という組織から、日本法人として初めて公認を受けた。
“ヤーロム”というアメリカでは有名な精神科医をアイコンにする。
“磯谷商店”運営する。親から譲り受ける。姉と経営する。
ギャラリー運営する。磯谷商店で運営する。
WEBギャラリー運営する。
“いそがやアートCV”を磯谷商店で運営する。アートサービスやる。
磯谷商店IT事業部やる。
ホームページ作成やる。
『Learn&share(シェア)』をモットーにした、パソコン通信peopleの“nettalk”というパーティーを主催した。
1996年から、プレゼンスプロバイダの仕事をはじめて、2001年2月に独立。親から譲り受けた『有限会社磯谷商店IT事業部』という形で動く。
『NPO法人アート・インタラクティヴ東京』が2005年6月~2008年5月30日まで、磯谷商店の事務局担当。美術コレクターを支援するNPO。
『NPO法人数理の翼』の会員。科学団体。科学に関する調査研究・教育・諸外国支援および国際協力・資料の編纂および刊行やる。
参加した『リディラバ(ridilover)の貧困ツアー』でホームレスへの炊き出し、パトロールに参加する。
ツイッターアカウント名の“zanjibar”が、アフリカのタンザニアに属する貧困島“zanzibar(ザンジバル)”に似る。キリスト教信者が多い国。
It's a beautiful day社員。パソコン、統計まわりの仕事やる。ホームページ作成やる。イベントやる。
姉がフランス行く。
神奈川県藤沢市在住。三浦半島のすぐ近く。
埼玉県所沢市小手指町に住んでた。
“家入一真”に何回もコメントする。
長尾正のホームページ“nagao.com”が工事中に、トップページが宮澤みきおさんのホームページ“mikio.com”をコピーしたページになる。
“mikio.com”の下に書かれてる“Preview”をクリックすると、宮澤みきおさんのホームページをコピーしたページが出て来る。『Peace is in Difference. 和は異に在り』と書いてある(障害を表す?)。カテゴリーに“Animation(アニメーション)”がある。
1998年12月12日~2000年10月2日に“web.archive.org(way back machine)”のアーカイブに残る。
“nagao.com”のホームページの工事が終わり出来たページに≪Layman's Serverとは、AdministrationLayman聖職者に対して一般人という意味です≫と書かれる。
≪このページの目的は、専門家ではないサーバ管理者のためのもの≫と書かれる。
2000年3月4日などに“web.archive.org(way back machine)”のアーカイブに残る。
Layman
1 聖職者に対して平信者、俗人。平信者とは、ユダヤ教・キリスト教等の宗教で、聖職者ではない一般信者の事。
2 しろうと、門外漢
長尾正のホームページ“nagao.com”が、長尾正が経営する会社『ギャラリーいそがや』のホームページになる。
“isogaya.co.jp”が同じ『ギャラリーいそがや』のホームページ。
≪あなたの空間にアートを≫と書かれる。“西洋額縁販売“”ギャラリー企画・経営・販売”“自社ビル経営”やる会社。
主要取引先に『国際交流基金 芸術交流部』『長岡造形大学』などがある。
長尾正が姉の“上林喜美子”と親から受け継いで経営する『有限会社 磯谷商店』が運営会社。
資生堂が“ギャラリーいそがや”でやる企画展に協賛する。
『ギャラリーいそがや』でアメリカのフィラデルフィア美術館のために毎年クラフトショーやる。
中川幸夫
『ギャラリーいそがや』で常設展やる。『ギャラリーいそがや』のホームページにある“常設展”をクリックすると出てくる。
前衛生け花芸術家/華道家。
3歳の時に事故によるケガが原因で“脊髄カリエス”になり、生涯を曲がった背中で過ごした。
高松高等工芸学校進学の予定が、教練に耐えられない体を理由に不合格となり、大阪の石版画工房(印刷会社)『近土版画社』に弟子入りし、石版画職人になる。『近土版画社』は現在『コンド』と名前を変え、“臨床研究支援・統計解析・印刷”をやる。他、『あさひ高速印刷』というグループ企業を持つ。
『近土版画社』を6年で退社した中川は、大阪の印刷会社2社に勤めて、印刷技術者として雑誌や映画ポスターの制作に従事したが、やがて“脊髄カリエス”が悪化して帰郷した。祖父と祖母が池坊に属して生け花をしていたことから、叔母のもとで生け花を始めた。
身体的理由で兵役を免除された。
戦後、旧友の生家が経営する『平和写真印刷』で働く傍ら、月に一度京都に行き、池坊最高位の“後藤春庭”から生け花の最も古い様式である立華を学んだ。
戦後の1949年、創刊されたばかりの専門誌『いけばな芸術』へ送付した花の作品集が作庭家の“重盛三玲”に認められ、世に名が知られるようになった。
個展の他、音楽家・舞踏家などとパフォーマンスの開催をしたり、ガラス作品の制作や書も手がけた。
NHKに出る。
1954年、モダンアートフェア(大阪・大丸、主催は朝日新聞社、第1回展)に招待出品(第2回、第3回も出品)。
1955年、自費出版で『中川幸夫作品集』を出版。
1956年、同じ前衛生け花芸術家の“半田唄子”と結婚。福岡県出身の“半田唄子”は32歳の時に夫が急死。姑、娘2人、息子1人が残された。その後、半田は太平洋戦争が始まった時に福岡大空襲により焼け出されてしまい、戦後の1947年頃には、進駐軍が出入りする料亭(旅館)などを回って花をいけたりして稼いだ。
香川県丸亀市出身。
土門拳
1955年 『婦人画報』11月号の中川作品撮影のために“土門拳”が中川幸夫のもとを訪れる。
写真家。
1957年 広島を取材。 1958年 写真集『ヒロシマ』(研光社)刊行。同社のカメラ誌「フォトアート」月例審査員を1963年まで断続的に務める。
鷲尾葉子
『ギャラリーいそがや』で個展やる。
陶芸家。
多摩美術大学油画科中退。
神奈川県藤野市に築窯。
朝日現代クラフト展で優秀賞受賞。
朝日陶芸展に参加する。
アトリエ飛行船陶芸研究所に入所した。
東京都中野区出身。現在、東京都府中市で築窯、作陶する。
中島俊市郎
『ギャラリーいそがや』で個展やる。
広島市立大学芸術学科ティーチング・アシスタント。工芸作家。
近畿大学文芸学部芸術学科卒。同校染色科研究室研修生修了。東京芸術大学大学院美術
研究科工芸専攻修了。
2000年、ミニアチュール・テキスタイル・コンペティションに参加(ハンガリー)。
1999年、『ギャラリーcafeくりっく』で個展やる(東京。世田谷区コミュニティー振興交流財団後援)。
1999年、日本デザインコミッティー・デザインフォーラム1999に参加(銀座松屋。東京)
1999年、日本教育学会50周年記念・国際カンファレンスのポスター制作(東京)。
1998年、劇団口遊階級公演“空が止まってみえた”舞台、宣伝美術、衣装担当(パンプルムス。東京)。
1998年、第4回国際“掌中”新立体造形公募展に参加(名古屋市中小企業振興会館。愛知)。
1997年、第5回ITFインターナショナル・テキスタイルコンペティション97に参加(京都文化博物館)。
岐阜県出身。
関島寿子
『ギャラリーいそがや』で個展やる。
かご作家。
津田塾大学英文科卒業(キリスト教系大学)。
1997年、『国際交流基金』のシンポジウムに参加し、ワークショップやる(トロント)。 2000年、『第7回国際シューボックスカルプチャー展』に参加する。(ハワイ大学。アメリカのホノルル)。
2017年、広島市現代美術館でグループ展やる。
2018年、広島市現代美術館でワークショップやる。
2018年、韓国ソウルの祥明大学校ギャラリーでグループ展やる。
2019年、横浜美術館でグループ展やる。
1975年、アメリカのニューヨークに転居。79年まで。
1992年、渡仏。93年まで。
1998年、アメリカのカリフォルニア州に転居。99年7月まで。
2016年、台湾で講義やる。
1994年、文化服装学院ファッション工芸科特別講師。
2003年、多摩美術大学生産デザイン学科テキスタイル客員教授。
NHK出る。“朝日現代クラフト展”に参加する。著書あり。
リズ・ブリザード
『ギャラリーいそがや』で個展やる。
画家。
オーストラリア出身。
メルボルン・テクニカル・カレッジ卒。
バララット大学卒。バララット大学にてペインティングとドローイングを教える。
1998年、ロシアのウラジオストックでやる国際女性美術展に参加(プリモルスカヤ州アートギャラリー)。
1999年、韓国ソウルでやる国際女性美術展に参加(トンドックギャラリー)。
四宮彰吾
『ギャラリーいそがや』で個展やる。
アーティスト。
1998年、ベルギーの『International Biennial for creative interior desing』に招待。
2000年、国際丹南アートフェアに参加。
東京都世田谷区の蘆花公園にある無双館で弾力道という闘力武道を学び、試合や演武会をする傍ら、作家活動に力を注いでいる。
ヒコ・みづのジュエリーカレッジアートジュエリー科卒。
神奈川県出身。
岸田劉生
長尾正が姉の“上林喜美子”と経営する『有限会社 磯谷商店』の2代目“長尾 一平(1886~1978)”が“岸田劉生”“和田栄作”“岡鹿之介”等諸先生方の額縁製作を中心に営業した。
洋画家。
1917年(大正6年)、結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養した。
1929年(昭和4年)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで生涯最初で最後の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。満洲で絵を売って資金を作りヨーロッパへ行く算段を立て、満洲で複数の絵を描いた。現地の暮らしに馴染めず、11月27日に満洲を発って帰国した。帰国直後、同行の画商田島一郎に伴われ、田島の郷里山口県徳山(現:周南市)に3週間滞在した。
潔癖症で知られ、汚物が腕に付着したことがあった時には「腕を切り落とせ」と言い張り、周囲を困惑させたことがある。病的な神経質で、くしゃみをすればアスピリンを服用し、寒い時に布団を五・六枚掛けたり、トイレでは紙を一丈(約3メートル)使ったという。
癇癪持ちで気に入らないことがあると当り散らした。
父親は薬屋『楽善堂』を経営する元新聞記者の“岸田吟香”。
弟はのちに浅草オペラで活躍し宝塚歌劇団の劇作家になる“岸田辰彌”。
岸田吟香
“岸田劉生”の父親。
新聞記者/実業家/教育家。
『和英語林集成』の印刷刊行のためにジェームス・カーティス・ヘボンと清国の上海へ渡り、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂につとめた。この美華書館は、アメリカ長老教会が1860年に上海に進出・設立した印刷所。
福祉活動にも積極的であり、盲人教育への関心も強く、前島密・中村正直・山尾庸三らと、1880年に授業を開始した楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設した。
中国では、商業的活動だけでなく欧米の医療技術の普及活動にも携わり、中国各地に病院を設けた同仁会(1902年設立)にも積極的に参加した。
目薬“精錡水”を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。
岸田辰彌
“岸田劉生”の弟。
宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。
浅草オペラで活躍後、宝塚歌劇団の演出家になり、一年余の欧米の劇場視察から帰国後の1927年(昭和2年)、日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。
ジェームス・カーティス・ヘボン
“岸田吟香”が『和英語林集成』の印刷刊行のためにジェームス・カーティス・ヘボンと清国の上海へ渡り、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂につとめた。この美華書館は、アメリカ長老教会が1860年に上海に進出・設立した印刷所。
米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師。
幕末に訪日し、横浜で医療活動に従事。牧師として聖書の日本語訳に携わった。
明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学≪キリスト教系大学≫)を創設して初代総理に就任するなど、高等教育にも貢献した。
同じ志を持つ妻クララと共にニューヨークを出発。香港、上海、長崎を経由し、1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜に到着した。
1863年(文久3年)、横浜居留地に男女共学のヘボン塾を開設。
宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれる。日本に来て、医療を武器に信用を獲得していった。専門は脳外科であったが、当時眼病が多かった日本で名声を博したという。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれる。
中村正直
“岸田吟香”と楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設した。
キリスト教信者。
啓蒙思想家/教育者/文学博士。
英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理(校長)、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。
1874年(明治7年)1月4日 横浜ユニオン・チャーチでジョージ・コクラン宣教師の説教を聞く。それがきっかけでコクランを同人社に迎え入れる。
前島密
“岸田吟香”と楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設した。
官僚/政治家/教育者。
1862年(文久2年)頃より、退蔵は何礼之の下、長崎で留学生活を始め、キリスト教信者のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者≪キリスト教系大学≫)やグイド・フルベッキから英学の教えを受けるなどしていた。
1876年(明治9年)に視覚障害者の教育を目指す楽善会に入会した密は、杉浦譲など同志た
ちとともに私金を出し合い、訓盲院の設立に力を尽くした。1879年(明治12年)に完成した訓盲院は、その後文部省へ移されたが、前島は引き続き同校の役員として、長くその運営発展に力を注いだ。そのため1917年(大正6年)の皇后行啓の際、前島は特に招かれて玉音を受けている。訓盲院は現在の筑波大学附属視覚特別支援学校の前身。
晩年を別荘『如々山荘』で過ごし、如々山翁を称した。この別荘は三浦半島西海岸の、現横須賀市芦名にあった。
山尾庸三
“岸田吟香”と楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設した。
1871年(明治4年)9月、『盲聾唖学校設置建白書』を起案。この意見はすぐには受け入れられなかったものの、障碍者教育の先駆けとなった。1875年(明治8年)5月に盲人教育を目的とした楽善会(東京盲唖学校の前身)が発足し、1876年(明治9年)3月に山尾が入会している。
1871年(明治4年)には盲学校、聾学校の設置を主張する建白書を表すなど障害者教育に熱心に取り組み、1880年(明治13年)に楽善会訓盲院(東京盲唖学校の前身)を設立した。1915年(大正4年)には日本聾唖協会の総裁となっている。1
政治家。
周防国吉敷郡二島村(現:山口県山口市秋穂二島)出身。
ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)において2年間英語と基礎科学を学んだ。
1868年(明治元年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となった。
松方三郎
“岸田劉生”が1929年9月末から、満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで生涯最初で最後の海外旅行に出かけ、大連・奉天・ハルビンなどに滞在し、満南洲で絵を売って資金を作りヨーロッパへ行く算段を立て、満洲で複数の絵を描いたが、現地の暮らしに馴染めず、11月27日に満洲を発って帰国した。
キリスト教信者。妻もキリスト教信者。
東京ロータリークラブ会長(ロータリークラブは国際ボランティア団体。アメリカのシカゴの4人のキリスト教信者が始めた。日本では1920年に“米山梅吉”という『青山学院(キリスト教系学校)』と関係の深いキリスト教信者が始めた)。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長(ボーイスカウトはキリスト教信者で牧師の父を持つイギリス人の軍人・作家“ロバート・ベーデン・パウエル”によって1908年に設立された団体)。登山家/ジャーナリスト/実業家。
河野通勢
“岸田劉生”が率いていた『草土社』へ参加した。
画家、版画家。
キリスト教信者。
父の“河野次郎”は長野師範学校の図画教師も務め、高橋由一の門下で洋画の普及・教育に尽力した洋画家であり、後に写真家となった熱心なキリスト教信者であった。
キリスト教に題材をとった作品が数多い。
和田栄作
長尾正が姉の“上林喜美子”と経営する『有限会社 磯谷商店』の2代目“長尾 一平(1886~1978)”が“岸田劉生”“和田栄作”“岡鹿之介”等諸先生方の額縁製作を中心に営業する。
洋画家/教育者。
キリスト教信者 。
父親は牧師で海軍兵学校の英語教員“和田秀豊”。
東京美術学校校長。
洋画家の“山口薫”が『和田英作教室』で学んだ。
パリで暮らした。
鹿児島県垂水市出身。
岡鹿之介
長尾正が姉の“上林喜美子”と経営する『有限会社 磯谷商店』の2代目“長尾 一平(1886~1978)”が“岸田劉生”“和田栄作”“岡鹿之介”等諸先生方の額縁製作を中心に営業する。
洋画家。
1925年 パリに移り、キリスト教信者の画家“藤田嗣治”に師事した。1939年帰国。
藤田嗣治
“岡鹿之介”が1925年 パリに移り、藤田嗣治に師事した。
画家/彫刻家。
キリスト教信者。
第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動する。
1886年、東京府牛込区(現:東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら、1854年 - 1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の嗣服は元田中藩士。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である。兄の嗣雄(1885年 - 1967年)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授(キリスト教系大学)。
黒田清輝
長尾正が姉の“上林喜美子”と経営する『有限会社 磯谷商店』の初代店主“長尾建吉(1860~1937)”が明治11年(1878) パリ万国博覧会、日本代表全権 松方正義の随員とし参加. 山本芳翠、黒田清輝両先生の知己をえる。
洋画家/政治家。
東京美術学校教授、帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員などを歴任した。
姉の“富森幽香”は水口教会宣教師ののち同志社女学校舎監(キリスト教系学校)。ハワイの実業家・西村篤(関西鉄道会社常務)の妻。
薩摩国鹿児島城下東千石馬場町(現在の鹿児島県鹿児島市東千石町)出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、その後伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子とな
った。
1878年(明治11年)、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学んだ。
東京外国語学校を経て、1884年2月2日に横浜を出発しフランスに滞在した。1893年7月30日に帰国するまで、フランスでは当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正らに出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事した。
“岸田劉生”が東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。
岸田辰彌
“岸田劉生”の弟。
宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。
浅草オペラで活躍後、宝塚歌劇団の演出家になり、一年余の欧米の劇場視察から帰国後の1927年(昭和2年)、日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。
武者小路実篤
“岸田劉生”が結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養する。劉生を慕い、草土社の椿貞雄や横堀角次郎も鵠沼に住み、“中川一政”らのように岸田家の食客となる者もいた。
小説家/詩人/劇作家画家/貴族院勅選議員。
1955年、70歳で調布市仙川に移住、晩年までこの地で過ごした(92歳没)。
華族の出。
2歳の時に父が結核で死去。
松方正義
長尾正が姉の“上林喜美子”と経営する『有限会社 磯谷商店』の初代店主“長尾建吉(1860~1937)”が明治11年(1878) パリ万国博覧会、日本代表全権 松方正義の随員とし参加. 山本芳翠、黒田清輝両先生の知己をえる。
政治家。
第2代日本赤十字社社長。
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)出身。
長崎統治体制を整え、長崎の秩序維持と人心安定に努めた。
松方正義が10歳の頃、叔父の田中清造に貸した金が返ってこなかったことで父は生活苦に陥り、幼い松方は貧困の中で育った。さらに、10歳の時に母を、13歳の時に父を亡くした。
現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。
明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス財務大臣レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)と交流し、彼の助言で、金本位制と中央銀行を中心とする統一的な近代的通貨信用制度の整備の必要性を痛感した。
角偉三郎
“ギャラリーいそがや”で企画展『中川 幸夫・角 偉三郎 てんかみうるし展 二人展』やる。
漆器作家。
日展に永く所属し、沈金技法を用いた煌びやかな装飾的な漆工芸品をおもに制作していた角偉三郎先生は不惑の40歳の時に、創作の方向性を見失いかけていた。そのさなか、作品だけは見て知っていた“鯉江良二”に面会したい旨の手紙を書き、常滑に“鯉江良二”を訪ねたという。初対面の鯉江に会い、その後交流し、親交を深めていった。そして、鯉江に大きな影響をうけていったという。そして、鯉江に背中を押されたのである。それまで、実用的な器物はほとんど制作しなかった角は、鯉江の助言もあり、椀や盆など実用的なうつわを精力的に制作するようになった。
鯉江良二
“角偉三郎”が鯉江良二を訪ね、影響を受ける。
陶芸家/現代美術家。
14歳のときにアルバイトにより右手指二本の第一関節を失う。「制作に支障はないが、就職では心を傷つけられた。このハンディを背負ったことが、ぼくの今の底力になっている」と鯉江自身が語る。
反核を題材とした「チェルノブイリシリーズ」等の代表作を持つ。
安部敏樹
長尾正が『リディラバ(ridilover)の貧困ツアー』でホームレスへの炊き出し、パトロールに参加する。
リディラバ(ridilover)創業者。東京大学在学中に、社会問題をツアーにして発信・共有するプラットフォーム『リディラバ』を立ち上げ。現在の活動の礎となる。社会課題を扱う。スタディツアー事業・修学旅行事業/ウェブメディアの企画・運営やる。
東大在学時に立ち上げたボランティア団体を事業化する。
ADHD/愛着障害/帯状疱疹/頭痛/うつ/メンタル/不登校。
幼少期から思春期手前までをとても貧しい家庭状況で過ごす。
14歳の時、家庭内暴力で家を追い出される。元々学校も通っていない。14~16歳位は親戚の家や、友人の家に泊めてもらっていた。高校はほぼ通っていない。
猛勉強して東京大学に入学した。東京大学博士課程中退。
障害者支援やる。貧困支援活動やる。発展途上国支援やる。
発展途上国の子供の教育支援団体『NPO法人e-Education』のイベント出る。
『聖光学院中学校・高等学校』のゲスト講師やる。キリスト教系学校。神奈川県横浜市中区滝之上100 。
『リディフェス』を開催する。“市民活動に従事する人”などが出る。
出張で広島に行く。
国際会議でソウル行く。
京都府長岡京市出身。
神奈川県横浜市育ち。
“家入一真”に支援される、仲いい。
“campfire”でやるプロジェクトを支援する。
NPO法人もやい
長尾正が参加した『リディラバ(ridilover)の貧困ツアー』で、もやいが講演する。
貧困支援団体。自立生活サポートセンター。
炊き出しやる。
ボランティア募集する。
長尾正が参加した『リディラバ(ridilover)の貧困ツアー』で、もやいが講演する。
貧困支援団体。自立生活サポートセンター。
“日本の貧困問題を社会的に解決する”というミッションのもと、2001年から貧困支援に取り組んでいる。
炊き出しやる。
ボランティア募集する。もやいの活動には多くのボランティアが関わっている。
『サロンドカフェこもれび』を運営する。毎週土曜日にやるカフェ。コーヒー出す。アジアの最も貧しく最も新しい国である、東ティモールのマウベシという村が作るコーヒー豆を使って自家焙煎する。当事者(生活困窮者)が作業にかかわり、喜びと自信を共有するスペース。
“稲葉剛”と“湯浅誠”が共同設立者。
“大西連”が代表理事。2011年より“もやい”に関わり、2014年より理事長就任。
“家入一真”が“GoodMorning”でやるNPO法人もやいのプロジェクトを支援する。
“GoodMorning”使う。利用する例として、“GoodMorning”のホームページに載る。
堂本暁子
宮澤みきおさんは事件前、独自ドメイン“www.mikio.com”を取得し、自らのホームページを作成していた。そのトップページが事件後もGoogleのキャッシュにしばらく残っていた。そのホームページは先に進もうすると、なぜか堂本暁子(前千葉県知事)のホームページに飛ぶという現象が起きていた。
ジャーナリスト。
前千葉県知事。
元TBS報道局記者・ディレクターとして報道番組の制作に携わる。教育、福祉などの社会問題を扱う。報道ドキュメンタリー『ベビーホテル・キャンペーン』が児童福祉法改正に繋がった。
TBS時代に、日本各地の子どもの入っている精神病院を取材で回った。
千葉県知事時代に、障害者差別を禁止する全国初の条例を制定した。
不登校支援やる。
母が絵描き。
聖心女子学院に通っていた(キリスト教系小学校)。
啓明学園初等学校卒(キリスト教系小学校)。
清泉女学院中学校・高等学校卒(キリスト教系学校)。
東京女子大学文学部社会学科卒(キリスト教系大学)。
アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。生後半年後に帰国。4歳で再渡米。小学校1年を終えて再び帰国して、帰国子女を集めた『啓明学園初等学校(キリスト教系小学校)』に編入。父親が1941年に渡米し、その3ヶ月後に日米が開戦となり、日本人収容所に送られて病死する。東京に残された堂本母子は、空襲で自宅を焼かれ、軽井沢の別荘に疎開したあと、千葉の母方の祖父母の家に移った。それから彼女の母親は会社に勤めたあと、デパートで外国人客の通訳として70歳まで働き続け、女手一つで堂本を育てた。
発展途上国への国際協力をやる団体『JICA(国際協力機構)』のインタビュー受ける。
開発途上国での人口、家族計画、母子保健分野での国際協力を行う『NGO家族計画国際協力財団(ジョイセフ)』の理事やる。
GLOBE(地球環境国際議員連盟)世界総裁。
IUCN(世界自然保護連合)副会長。
地球環境、世界の経済格差の問題に取り組む『NGO市民フォーラム2001』の理事やる。 JCA関連団体。
駿河湾相良海岸のアカウミガメの保護をとおして自然と開発の調和を考える『NGOカメハメハ王国』の名誉国民やる。
学校外の子どもの居場所・フリースクール『東京シューレ』のパートナー。
NPO支援やる。
著書あり。
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